めぐり逢いて 20

 ふたつきの間は、平穏無事に過ぎていった。
 箱館市中がいつも“平穏”であったわけでは、もちろんない。榎本総督の命によって発行された新貨が贋金として敬遠され、その使用を巡って商人たちとの間で揉めごとが起きたり、その使用を拒んだものを入牢させたりで、小さなごたごたは絶えなかった。
 とは云え、“官軍”にも動きらしい動きは見られず、そう云う意味においては、箱館は平和であったとすら云って良かっただろう。
 その平和が破れたのは、三月も半ば過ぎのことだった。
「荒井さんが、甲鉄を奪い取る計画を立てたんでな」
 副長はそう云って、鉄之助に、戦いが近いことを告げてきた。
「どうも、俺たちが実行部隊として出向くことになりそうだ。接舷して、歩兵が斬りこむんだとさ」
 荒井、と云うのは、海軍奉行の荒井郁之助のことだった。
 聞くところによると、荒井は、回天の艦長である甲賀源吾や、仏人士官たちと図って、甲鉄の奪取を目論んでいるのだそうだ。先年、江差沖で座礁した開陽の穴を、甲鉄でもって埋めようということらしい。
 甲鉄は、鋼鉄製装甲の軍艦、いわゆる装甲艦で、もともとは米国が仏国に発注した戦艦だったと云うことだったが、それを、慶応三年に、幕府の訪米使節が買取の契約を交わしていたものだと云う。戊辰戦争のあおりで、契約そのものが宙に浮いたかたちになっていたのだが、今年になって、“官軍”が買い取ったのだと聞いていた。
「接舷して斬りこみ、などと云うことが可能なのですか?」
 鉄之助は、思わず問い返していた。
 もちろん、古来からそのような戦い方があったことは、語り物などで鉄之助も知っている。古くは源平の合戦、近くでは村上や九鬼の水軍、各地に跋扈する海賊などが、そうやって戦いを繰り広げてきたことも。
 だが――それらのものは、あくまでも古くからの、木造の帆掛舟同士のことであって、例えば西洋式の帆船や、外輪船、蒸気船などによるそれではなかった。
 昔ながらの帆掛舟と、西洋式の帆船とでは、船の速度がかなり異なる上、船体の規模も格段に大きくなっているだろう。そんな状況で、本当に接舷攻撃など可能なのだろうか?
「そういう戦い方が、西洋にもあるんだとさ。“アボルダージュ”と云うんだそうだが」
 そう云って、副長は、長い指で口許を撫でた。
「俺は、海戦はやったことがねェからなァ、出来るかどうかはわからんさ。だが、榎本さんは乗り気のようだ。仏人士官たちも、出来ると云う前提で話を進めているようだしな。――もちろん、接舷ができりゃあ、斬りこみ自体は出来なかァねェ。出来なかァねェが……乗り移れる員数次第だなァ」
 確実に敵を斃せなければ、斬りこんで行ったこちら方のほうが、狭い甲板の上で殲滅させられることになる。成功すれば成果は大きいが、失敗すればそれも大きい――ひどく危険な賭けだった。
 鉄之助が黙りこむと、副長は苦笑して、髪をくしゃくしゃと撫でてきた。
「何て顔してやがるんだ、市村。大丈夫だ、心配ないさ」
「でも……」
 そんな危険な賭けが、果たして成功するのかどうか、鉄之助は不安だった。
「――俺も、連れて行って戴けるんですよね?」
 せめて、副長に同行して、その楯になることくらいはできるはずだ。
 だが。
「いや、今回は君は残れ」
 副長は首を振った。
「何故ですか!」
 思わず、鉄之助は叫んだ。
 副長を守る、それだけが、鉄之助に与えられた使命だった。小姓とは云え、かれは心のうちでは、他の隊士たちと変わらぬ決意で副長の傍らにあった。つまりは、副長を守り切る、そのためなら己の身を投げ出すことも厭わぬ、そのような決意で。
「艦上の戦いは、足許が不安定だ。君は、それに耐えるにはまだ未熟だ」
 きっぱりと云い切られ、涙が滲んだ。それでも、なにがしかの役には立てると思って、ここまで来たと云うのに。
 副長は、苦笑とともに溜息をこぼし、鉄之助の肩に手を置いた。
「――なァ、市村、今回は聞き分けてくれ。……それに、最近、玉置の具合も悪い。誰かが傍についててやらなくちゃあならねェ――それを、君に任せたいのさ」
 確かに、このところ、玉置の具合は悪化していた。鉄之助は、副長の命で、度々かれを見舞っていたが、顔色はいよいよ白さを増し、幾度かは、鉄之助の目の前で喀血もしていた。
 玉置は長くはない――それは、鉄之助もよくわかったことだった。
 そうして、玉置と同じ病で沖田を失った副長が、せめてあの少年には、孤独な最期を迎えさせまいとしていることも。
「……わかりました」
 遂に、鉄之助は頷いた。
「俺は、今回は残ります。玉置君のことは、お任せください」
 それが副長の命であるのなら、従わぬわけにはいかなかった。
 それに――つい先だって見舞った折の、玉置の痩せ衰えた面差しを覚えている。心細げなまなざしで見つめてきながら、それでも気丈に微笑んで鉄之助を送り出した、まだ幼さを残したあの顔を。
 ――副長は、いかがなさっておいでですか。
 白い顔で微笑みながら、いつもそんな風に訊ねてきた。
 あぁそうだ、本当はかれも、鉄之助と同じに、副長の傍にあって、ともに戦っていきたかったはずなのだ。
 鉄之助はこれまで、玉置の望んで果たせなかったことをしてきたのだ。その間、かれがどれほどの不安と孤独の中にいたか、知りもせずに。
 だからこそ、鉄之助は、今は玉置を守ってやるべきなのだろう――かれを置いて行かねばならぬ、副長の代わりとして。
「あァ、頼んだぞ」
 ほっとした顔で副長は云い、鉄之助の髪をくしゃりと撫でた。
 そうだ――副長はおそらくは、玉置のことを云いながら、沖田のことを考えているのに違いない。江戸に独り残された沖田が、死を迎えるまでの間、どんな思いでいたのかを、その胸中を去来したであろう孤独と寂寥と――置き去っていったものたちへの複雑な感慨を。
 だが、その思いは、また鉄之助のものでもあったのだ。かれもまた、沖田を置いて去っていった人間であったのだから。
 ――沖田さんの分も、玉置君を淋しくないようにしなくては。
 鉄之助は、そう思いながら、副長に強く頷いた。



 しかし。
 玉置は、それからほどなくして、療養所で息を引き取った。
 三月下旬、副長たちが出立する、ほんのわずか前のことだった。


† † † † †


鉄ちゃんの話、続き。もう20章、つーかそろそろ宮古湾海戦ですか。


一月二月はあんま何もなかったっぽいですね、『日誌』見てても。そして、三月から途端にばたばただ。
つーか、鉄ちゃんが箱館脱出を命令されたのが四月アタマで、宮古湾海戦が三月二十五日なので、もうちょこっとしか間がない感じですね。そっか、鉄ちゃんは、二股口とか行ってないわけね。


あ、玉置くんの死んだの、三月だそうですが(それは何かの本にあった)、どうやら忙しい時期でばたばたしてて、満足に葬式も出せなかったと云う(怪)情報が。野村と前後で死んだので、鬼的にはWパンチだったらしいとか何とか。顔が白くなってたそうです――そうですか、鬼、労咳と咳は大嫌いですか。
野村の死とどっちが早いのか、イマイチ確定じゃないのですが、あれこれ統合してみると、多分玉置くんのがすこし前なんじゃないかなー。
そっか、それで鉄ちゃん早めに帰したんだねー。二股口とか連れてったら、確実に討死するもんなァ。それは、流石に鬼も厭だったんだろう。鉄ちゃん可愛がってたって云うしねー。
四月六日に官軍来襲の報が来て、九日に鬼は市ノ渡に宿陣してるんだから、七日か八日に鉄ちゃんに申し渡し、で出航が十五日か。まァそんなもんかなァ。


この項、とりあえず終了。結局、海戦どころか、出航もしないうちにこの章終っちまいましたね……
次は、鬼の北海行だなー。