北辺の星辰 13

 使者は、はじめに清水屋を訪ねていったのだと語った。
新撰組の山口隊長殿にお聞きしたところ、土方殿は清水屋に逗留しておいでと伺いましたので――」
 それで、こんなにも知らせが遅れてしまったのだと、使者は汗を拭いながら云い訳した。
 山口、とは、斉藤一の変名だった。では、この使者は、新撰組が出向いた戦地にまで赴いたと云うのか。それでは、隊士たちは、歳三よりも先に、この知らせを聞いたのか――その時のかれらの胸中は、いかばかりのものだっただろう。
「――わざわざこのようなところまでご足労戴き、かたじけない」
 使者をねぎらいながら、歳三は、己の胸中を満たしていくものが、悲しみでも怒りでもなく、罪悪感と呼ぶべきものであることに気がついていた。
 そうだ――近藤を死に追いやったのは、確かに自分なのだ。あの時、流山でかれと袂を分かっていなければ、あるいは近藤は、未だ生きて、この会津にすらあったのかも知れない。あるいは、あの時腹を切らせていれば、朝敵としての汚名を受けて、斬首になることはなかったかも知れない。
 近藤に切腹を許さず、生きて薩長に下らせたのは、他ならぬ自分自身なのだ。
 ――すまねェ……
 悔いる言葉を呟きながら、しかし、歳三の思った相手は、死んだ近藤ではなく、江戸で病床にあるはずの沖田の方だった。
 ――近藤さんのことは、必ず俺がどうにかする。
 そのようなことを云いながら、結局は、何もできずに刑死させてしまったではないか――そんな思いが、歳三の胸を重くふさぐ。
 沖田の耳には、この報は入ってはいないのだろうか。江戸を発つ前に、沖田の姉・ミツや勝、かれの世話をしていた老婆などに、近藤の話は何も聞かせないでくれとは云い置いてきたが――万が一にも、この報がかれの知るところとなれば、沖田は、生きる気力を失って、そのまま息絶えてしまうのではないか。そればかりが、歳三には気がかりだった。
 ――ひでェ野郎だよなァ、俺は……
 苦い笑みがこぼれ落ちる。
 長年の盟友だったはずの男の死を嘆くよりも、それに衝撃を受けずにはいないだろう男の安否を気遣うなど。
 だが、最早、歳三にとっては、近藤よりも沖田の方が気がかりだった。
 何もかも捨て去ってきた歳三にとっては、置き去ってきたとは云え、沖田の存在は、最後に残された生きるよすがだった。たとえ沖田が遂に追いついてくることがないとしても、それでも、かれが生きている、そのことが、歳三の生をも支えてくれるのだと思っていた。
 いずれ、いつか、沖田が自分を追ってくる――そう信じることで、まだ自分はいき続けられる、まだ、走り続けることができるのだ。
 ともかくも――隊士たちには、己のこの薄情さを隠しおおせねばならぬ。
 市村、玉置の小姓ふたりも、畠山たちですら、近藤の死に涙を見せている。こんな時に、盟友であったはずの自分が、あまりに冷淡な態度では拙いだろう。
 歳三は、すこし動けるようになると、会津候に願い出て、東山温泉にほど近い天寧寺に、近藤の墓を建立する許しを得た。
 ようよう歩けるようになった右足を引きずりながら、毎日のように天寧寺へ行く。近藤の墓の出来具合を検分しに――だがそれは、あるいは畠山や沢、松沢などへの、ある種の申し開きのようなものだったのかも知れぬ。己は近藤のことを忘れたわけではないのだと、その死を心から悼み、悲しんでいるのだと、そのような姿勢を見せるために。
 ――また、ご大層な戒名を戴いたもんだなァ。
 会津候より賜った戒名が、真新しい墓石に刻まれていくのを見つめながら、皮肉に歪む唇を覚える。
 「貫天院殿純忠誠義大居士」――会津候の目から見た近藤は、あるいはこのとおりの人物であったのかも知れぬ。そうだ、近藤は、確かに誠と忠義をもつ男だった――己の栄達に酔い、有頂天になりさえしなければ。かれが頭を垂れた男たちは、近藤の“忠心”を見て、その“誠”に心を打たれたものも多かっただろう。
 だが――己につき従ってきた隊士たちを捨てて、今まで切り捨ててきたものたちのことも忘れて、「腹を切る」などと云ってしまえる人間を、「純忠誠義」と称えてやるつもりなど、歳三にはありはしなかった。
 近藤の名の下に集まった隊士たちを、行く先も示さぬままに捨て去ろうなど、そのような男に、“局長”を称する資格はない――たとえ、それを知るものが、歳三ひとりだったとしても。
 だが、今だけは。
 ――あんたのために、空涙を流してやるさ。
もはや、冷ややかなものばかりが、歳三の肚のうちを満たしていた。
 ――あんたのために……俺のために。
 これから先、“新撰組”が消え果てるまで、歳三が隊士たちを率いていくために。
 自分たちの往く手に、さきなどはない。それを知ってもなお、その道を選び取ること――それが、歳三にとっての“士道”であるのかも知れなかった。
 そして、その道の先には、もはや近藤の姿はないのだ。姿も、影も、その名すらも。
 冷笑につり上がる口許を抑えつつ、歳三はそっと、刻まれたかつての友の名を、指先でなぞった。



 歳三の傷は中々回復せず、起ち居が支障なく行えるようになったのは、六月も半ばになってのことだった。
 その二月半ほどの間に、会津の戦況は急激に悪化していた。
 会津の守りの要、白河城が五月一日に陥落。新撰組は、その北に位置する勢至堂口まで退却、三代に転戦し白河城奪還を試みるも、あえなく敗退する。五月下旬には上小屋村へ、そこから大谷地村へ進軍するも、またもや敗れて牧之内へ退くことになる。
 その後も、幾度かの出陣と敗走をくり返しているうちに、“官軍”側は援軍を得て、白河城から南東にある棚倉城をも攻略。
 いよいよその手を、会津中へ伸ばそうとしていた。


† † † † †


鬼の北海行、続き。


きっとこれまで読んでこられた方は、今回、ここで鬼が泣くだろうと思われてたと思います。
が、今回は泣かないんだ、残念。
何と云うか、あんまり哀しいと云うカンジじゃないと云うか――罪悪感はあるけど、その質も上記のとおりで何かアレだしと云うか。
まァ、いつも云っているように、うちの鬼はかっちゃん嫌いなので、罪悪感はあれども、悲しんだりはしないのでした――総司のときは、結構ショック受けてたそうですよ。と云う(怪)情報が。
いいじゃん、いろんな鬼がいるんですよ。大体うちの鬼、他所様のに較べて、細くも華奢くも繊細でもない(……繊細さに関しては、そうでもないか)からなァ。綺麗な鬼は、他所にお任せ〜。
いやもう、性格の悪い鬼ですみませんねェ。でも、別に鬼も(永倉さんじゃないけど)かっちゃんの家臣になったわけじゃあないんで。家臣じゃなきゃあ、それに殉じなきゃいけないってことァないですからねェ。


沖田番と話していたのですが、うちの鬼がかっちゃんのことを嫌いなのは、やっぱり(かっちゃんが)統率者としての自覚に欠けているところが一番の理由なんだと思います。
あの人は、流山で「切腹する」とか云い出すべきではなかったし、それ以前のあれこれでも、例えばかっしーとかを迂闊に入隊させるべきじゃなかった。殿内さん切った後や、芹鴨切った後に天狗になったのも良くなかったし、邪魔になったからって山南さんを切るという決定を下すべきではなかった――まァ、最後のは鬼も悪いんだけど。賛同した、あるいは口火を切っちゃったからね。
鬼の悪かったとこはね――かっちゃんを担ぐべきじゃなかったな。せめて早々に乗り換えておくべきだった。早いうちに新撰組を解体して、全然違う組織で、違うひとを担いで動くべきだった。そういう意味では、鬼も見る目がなかったと云うか、担ぐべきひとを見誤ったというか。


流山以降の鬼が、指揮官としてきっちり動いてるように見えたとしたら、それは担ぐ相手が変わったからでしょう。勝さんの命で、明確な目的の下に動いてたから、指揮官らしく見えたので、あれがかっちゃんの下だったら――ああいう“格好よさ”にはならなかったと思います。
まァ、「流山以降のあれは“新撰組”じゃない」と云う沖田番の科白もそのとおりなんだけどね。うん、あれは“新撰組”じゃない、厳密に云えば。
まァぶっちゃけ鬼は、自分が作ったものに関して、途中で投げ出せなかっただけだと思う。宇都宮‐会津‐仙台‐箱館と、徐々に隊士たちが脱落していくのは、(何度も云うようだけれど)鬼的にはほっとしたところもあったと思う――そうやって、“新撰組”がぼろぼろと崩れて、京都以来の同志が遂に誰もいなくなったら、そうしたらやっと、自分の責を果たしたと云えるんだと思ってたと思う。残念ながらと云うべきか、最後までそんなことにはならなかったんだけども。
だから、自分の死でもって、無理矢理“新撰組”の亡霊を葬ったんだと思う。でも結局、相馬にケツ持たせちゃったんだけどね(苦笑)。最後まで酷い奴だ(笑)。あァ、ホントにな。


……ちょっといろいろしんみりしちゃったよ……
この項、短めだけど終了で。
次は小噺、の前に、二十八日に高幡不動に山南役と行くかも……行ったら、レポとか書くかも、です。