北辺の星辰 7

 幕軍総督・大鳥圭介率いる中・後軍は、四月二十日に宇都宮城下に入ってきた。
 歳三は、秋月登之助や、宇都宮城下の寺から救出した備中松山藩主・板倉勝静とその子息・万之助らとともに、大鳥たちを出迎えた。
「――よもや、先鋒軍のみで、宇都宮を落とすとは」
 大鳥は、驚きの表情を隠そうともせずに、云った。
 秋月が、すこし得意げな面持ちで、
「まぁ、我々も、これほどうまくゆくとは思っておりませんでしたが――まずは、ここを礎に、日光までを我々が抑えてまいりましょう」
 だが、歳三は、それほど巧くいくのかどうか、懐疑的だった。
 今回の宇都宮攻略でわかったことだが、やはりこの軍の兵たちは、戦いに対する心構えが出来ていない。確かに緒戦ではあった。だが、それを云い訳にしたとしても、あの戦いぶりはあんまりなものだった。
 もっと早く城内に斬りこんでいくことが出来れば、それも、三つの隊がほぼ同時に、三方から攻め込んでいくことができていれば、敵に、城郭へ火を放つ暇を与えはしなかったのだ。
 もちろん、仕方ないことは、歳三とてもわかっていた。緒戦で怯するばかりの兵を、率いる側の指揮官たちもまた、これがはじめての戦いであるのだ。
 だが――戦ったことのない兵と戦ったことのない指揮官、それでどうして、これからの戦場で戦って、生き延びていくことができると云うのか。
「いやいや、すばらしい戦果だったな!」
 秋月を労って、大鳥は云うが――拠るべき城を失ったことが、一体どれほどの成果だと云うのだろう。
 ともあれ、もちろん、このままここで、じっとしているわけにはいかない。薩長軍の追討隊が、刻々とこの宇都宮に迫っているのだ。
 大鳥軍は、十七日に結城藩内の武井で、また十七日にはその北の上野・小山で、薩長軍と対峙し、いずれも勝利を収めていた。
 だが、無論、その程度の敗北で、かれらは幕軍追討を諦めはしないだろう。
 そこで大鳥が提案したのが、薩長軍の上野での拠点である壬生城の攻略であった。
「ここで薩長の勢いを挫いておけば、後々我らが、戦いを優位に進めることができるだろう」
 大鳥は、この二戦を勝ち抜いたことで、己の指揮力に自信を持ったようだった。地図を前に、目を輝かせて、作戦の説明をしている。
「幸い、薩長の輩は、こちらへはそう兵を割くつもりはないようだ。相手は寡兵だ、今のうちに叩いておくにこしたことはない」
 もちろん、それはそうだ――だが、そう巧くいくものだろうか。
 歳三が一番気にかけていたのは、幕軍と薩長軍との、戦歴の大きな差だった。
 薩長軍は、薩摩も長州も、どちらもこれまでに、幾度も戦いを経験している。薩摩は英国を相手に、長州は他ならぬ幕軍を相手にだ。
 指揮官が凡庸であろうとも、経験は人を成長させる。実戦の経験がある薩長の指揮官と、任命後わずか一月を経たばかりの歩兵奉行――作戦遂行上、どちらにより利があるかなど、火を見るより明らかだ。
 しかしながら、大鳥の云うことは、確かに一理あった。そうとも、増援の兵が到着する前に、今いる薩長軍を叩いておくにこしたことはないのだ。こちら方が、戦歴の乏しい軍隊であれば、なおのこと。
 軍議は決し、かれらは翌日、行軍を開始した。
 大鳥は、全軍を街道沿いに南下させ、幕田のあたりに布陣する。
 対する薩長軍は、姿川をはさんで反対側の安塚あたりを陣としたため、両軍は、ちょうど姿川にかかった淀橋を間に対峙するようなかたちとなった。
 二十一日はそのまま、何ごともなく野営、戦闘は、翌二十二日未明にはじまった。
 総督・大鳥は、昨夜から体調を崩し、前線を離れており、全軍の指揮を取ったのは秋月登之助と、伝習士官の大川正次郎だった。
 歳三は――この戦いには参加せず、新撰組などとともに焼け落ちた宇都宮城に留まり、その守衛と、やはり戦火で焼け出された城下のために炊き出しなどの指揮をとっていた。
 島田たちは不満げだったが、歳三自身は、この仕事を充てられたことについて、不満と云うほどの不満はなかった。
 正直に云えば、壬生城攻めに同行していれば、秋月や大川の指揮ぶりや、伝習隊などの戦いぶりに関して、苛立ちを感じずにはいられなかっただろうし、そうなれば、今後かれらとともに戦っていくのに、心情的に支障をきたしかねなかったからだ。歳三の質として、求められずに口を出すことはできなかったが、しかし同時に、その結果起こったことに対して、上のものを責める気分にならぬこともまたできなかったから。
 それよりは、目の前に果たすべき仕事の山積しているここに残っている方が、ただそれを片付けていけばよい分だけ、気持ちとして楽だったのだ。
 ――さて、しかし、無事に壬生城を落とせるものか……
 右往左往するばかりの兵たちを指揮しながら、南の空を眺めて、ふと思う。
 大鳥の作戦自体は、よくできたものだと思う。ただし、それは、あくまでも実行する兵が歴戦のつわものであればの話であって、戦歴の乏しいあの兵士たちでの戦いとなると――机上の空論の感は否めなかった。
 どのみち、ここにもながく留まることはできないだろう――そう考えたのは、焼け落ちた、瓦礫と礎石ばかりが残る城を目の前にしていたからか。
 ――いいや。
 そうではない。これまで薩長と戦ってきたからこそ、思うのだ。幕軍は、ここを持ちこたえることは出来ないだろう。
 それには、薩長があまりにも勢いに乗りすぎている。それは、一度や二度の勝利などでどうにかなるものではない。
 ――時流はもはや、俺たちのがわにゃねぇ。
 あの流山での別れ際、近藤の云った言葉が甦る。
 そうだ、もはや時流は幕軍の側にはない。それは、“官軍”などと称する薩長の側にある。かつて京で、いくども桂小五郎の首を取り損ねたように、時の利は向こう方に流れていってしまった。自分たちは、もはやそれを返すことはできないのだ――徳川が、再びこの国すべてを支配することはない。
 だが――歳三は思い返す。
 勝がかれに語ったように――奥州には、まだ勝機があるかもしれない。薩長の得た時の利を、覆すには至らぬまでも、徳川を力あるままに存続させる、そのための勝機くらいならば、まだ。
 そうだ、すべてが決したわけでは、まだないのだ。まだ、自分たちは戦える。それならば、たとえ僅かでも、動かせるものがあるはずだ。
 歳三は思いなおし、もう一度、戦いの起こっているであろう南の空を、強いまなざしで眺めやった。



 歳三の危惧のとおりに。
 この日の壬生城攻略は、薩長軍の増援隊の到着によって、阻まれることになる。
 秋月登之助率いる本隊は、安塚で、壬生より出てきた土佐藩などによる混成部隊と激突。戦いを優位に進めるも、東山道軍内参謀であった鳥取藩士・河田左久馬が出陣するに及んで、形勢は逆転、敗走を余儀なくされる。大川正次郎率いる別働隊も、本隊との連携がとれぬままに敗走。
 “官軍”側は、追いすがろうとするも、伝習隊の持つシャスポー銃による損害が大きく、本隊・別働隊を姿川以北に押し戻しただけで、それ以上の追撃をかけることなく、壬生城へと戻っていった。
 幕軍側の損害はさほど大きくはなかったが――敗戦によって、士気が下がることは防ぎようがなかった。
 結局、この敗戦が、翌二十三日の宇都宮城攻防戦の、双方の勝敗をわけることになる。


† † † † †


鬼の北海行、続き。もう七章目か――まだ宇都宮だよ(汗)。


休みだったので(しかし、寝こけているので起動は遅い)、ちょこっと近所の図書館に行って、こないだ他所日記でひろった『浅田次郎 新選組読本』を借りてきました。黒鉄ヒロシのコメントが読みたかったので。
うん、私も黒鉄さんと同意見だ――鬼は多分、かっちゃんが嫌いだったよ、ある時点から。池田屋はまぁ、都合により一緒じゃなかった(だって、隊を2つに分けるのに、一方にトップふたりがいるっておかしいじゃん)けど、鳥羽・伏見もかっちゃん怪我してたから仕方なかったんだけど、甲陽鎮撫隊はね……
しかし、あの対談はいろいろアレでした――発句の話と色男自慢の話はもう! 勘弁してください……(泣) 読むと恥しいから! 本当にね!


あとは勝さんと小栗さんがらみの本!
見ろ、沖田番! 勝さん、いつも機嫌がいいって、オランダ人教官のカッテンディーケも、米海軍大尉のブルックも書き残してるぞ! 沖田の前では知らんが、すくなくとも、勝さん、対外的にはにこにこしてる人だったんだよ!
と、勝ち誇ってみる。
しかし、勝さん、慶喜くんには大概愛想尽かしてたんだなァと云うことも、いくつか読んでわかりましたよ……そりゃあ「あの莫迦簀巻きにして、庭の松に吊るして、それを肴に一杯やったらスカッとするだろうなァ」くらいのことは――云うよねェ、勝さんだもんねェ……


この項、終了。