めぐり逢いて 22

 戦いの風は、速やかに蝦夷地に吹き寄せてきた。
 四月六日、英国の商船が寄港し、青森に敵艦隊の集結しつつあること、箱館在住の異国人は、二十四時間以内に家財を取りまとめ、青森へ避難するように、との通告をしてきた。
 ――いよいよ決戦のときか。
 鉄之助たちは、奮い立った。
 もとより、自分たちが不利な立場にあることは承知していた。敵兵は多いが、こちらは江戸を発した時より人員も半減し、また攻守の要であった開陽を欠き、制海権をも失った蝦夷政権に、勝ち目があるとは思えなかった。
 それでも、かれらの心中に、絶望はなかった。蝦夷地へ渡航する時に、生きて帰ることはあるまいと、肚を決めていたからだ。
 特に、新撰組以下、副長に従うものは意気軒昂で、島田などは、
薩長の輩、何するものぞ! 我らの心意気、見せてやろうではないか!」
 などと気炎を上げていた。
 新撰組本隊は、翌七日、箱館山の麓にある、弁天岬の台場に移った。一本木関門より箱館山までの外国人居留地からは、居留者たちが撤退し、いよいよこの地がいくさ場になるのだと、隊士たちに知らしめていた。
 副長は、こののち、江差二股口の守備のため、出陣することが決まっていた。
 鉄之助は、副長に従うため、出陣に必要なものどもを取りまとめる作業に没頭していた。
 と、
「……市村君、いるか」
 障子の向こうから、安富が声をかけてきた。
「はい、ここに」
 応えながら、珍しいこともあるものだと思う。
 安富は、陸軍奉行添役として、多忙を極めているはずだ。それが、たかだか小姓ひとりに、何の用があると云うのだろう。
「副長がお呼びだ。君の荷物は、準備ができているか? できたら、それを持って、副長のところへ行ってくれ」
「はい」
 荷物を持って、とはどういうことだろう。副長が二股口へ発つには、まだ数日の猶予があったはずだ。それとも、急に事情が変わって、早急に出立せよとの命が下ったのか。
 だがそれならば――何故、鉄之助の荷物だけを持って来いと?
 鉄之助は、自身のごく小さな包みを抱え、副長の許へと赴いた。
「市村です。お呼びと伺って参りましたが」
「……あァ、入れ」
 許しを得て、鉄之助は唐紙をそっと開けた。
 副長は、窓辺に置いた机について、何やら書きものをしているようだったが、鉄之助が入ってゆくと、ゆっくりとこちらを振り返った。
 その顔に浮かんでいたのは、様々の感情の入り混じった、不思議な深い表情――副長は、その複雑な面持ちのままで、鉄之助をじっと見つめてきた。
 暫の沈黙の後、
「――市村」
「何でしょう」
 鉄之助は、応えながら、心の臓が大きく脈打つのを覚えていた。
「特命がある。きっと果たせ――誓えるか?」
 特命。
 どくり、と鼓動が耳の奥に響いた。
「それは……どのようなご命令でしょうか」
 常ならば――鉄之助は、“特命”を課せられたことを喜んだだろう。副長に見こまれてのことなのだと、自分もこれで一人前と認められたのだと、小躍りすらして拝命しただろう。
 だが、今、蝦夷政府のものすべてが一致団結して戦わねばならないこの時に、何故、何ゆえの“特命”であると云うのか。
「果たすと誓え。でなければ告げることはできん」
「特命の内容をお聞きしなければ、承ることはできません」
 今回ばかりは、鉄之助はきっぱりと云い返していた。
 鉄之助ひとり分の荷物と、副長の下命するにあたってのこの念押し――その意味することなど、ひとつしか考えられなかった。
「市村。俺の命令が聞けねェのか」
「お傍を離れよというご命令でしたら、承りかねます」
 鉄之助のはっきりとした応えに。
 副長は、さっと表情を凍りつかせた。
 ――やはり。
「――市村」
 副長が、苦りきった顔で、鉄之助を呼んだ。
「わかっているのか――俺ァ、お前まで失くしたかァねぇんだよ」
「わかっています」
 わかっている。“鬼”と呼ばれながらも情の深いこの人が、どれほど鉄之助のことを考え、傍を離れろと――生きて箱館から落ちのびろと云ってくれているのかは。
 だが、鉄之助にも退けぬ理由がある。果たさねばならぬ約定があるのだ、償わねばならぬ過去の罪過が。
「それでも――沖田さんと、約束したんです」
 びくり、と、副長の肩が震えたのがわかった。
「なに、を――」
 そうだ、沖田の名を出すことが、副長の傷を抉るようなものなのだとはわかっていた。
 だが、あのひとの名を出さなくては、副長はきっと、無理にでも鉄之助を箱館から落ち延びさせようとするだろう。
 これが、鉄之助の精一杯の抵抗だったのだ。沖田の名の下にかわされた約束が、このひとの身を守るだろう、そうして鉄之助の決心をも。
「あのひとが追いつくまで、副長をお守りするのだと――だから……」
 沖田のいない今、鉄之助自身が死ぬまで、その約束を守り続けるのだと。
 けれど――
「だが……あいつァ、もう死んだんだ」
 副長が、軋る歯の間から、言葉を搾り出した。
「あいつァ死んだ――もう、おめェの約束した相手はいねェんだ」
 まるで、自分自身に云い聞かせるような。
「そうである以上、おめェには、その約束を果たす責めはもうねェ――そうだろう。……俺の命を受けて、箱館を出ろ。そして、多摩の――日野の本陣で、佐藤彦五郎兄に、俺の言伝を……」
「俺は! 沖田さんとの約束だけでなく、俺の意思で、副長のお傍にありたいんです!」
 本当は。
 罪悪感よりも何よりも、このひとと再びともにあれることの喜びの方が、鉄之助の中では大きかったのだ。
 沖田に後ろめたさを感じずにはいられなかったのは、また――遠い昔と同じように――かれではなく、自分の方が、このひとと最後までともにあれる、それ故で。
「どうか! 俺を最後までお傍において下さい! 俺は、副長より後まで生きていたくなどないんです!」
 できれば、このひとの最期を見届けるのではなく、今生くらいは、楯となって、このひとを生かし続けて死んでゆきたかった。そう、例えば野村利三郎がそうあったように。
 ――生きてください、生きて……!
 水を奪われた魚のように、土より離された樹のように、虚ろに斃れてゆく様を見つめるのではなく、自分の最期に見る光のうちに、生きて、まだ戦い続けるこのひとを認めたかいと思っていた。
 だが。
「――ならば、ここで俺に斬られるか」
 云うなり、副長は、すらりと腰のものを抜き放った。和泉守兼定の鋭い刃が、まっすぐに鉄之助に向けられていた。
「俺の命を果たせぬのなら、ここで死ね。そうすれば、俺より先に死ぬことができるぞ」
 こちらを睨み据えてくる副長のまなざしは、真剣そのものだった。
 これ以上抗えば、このひとは鉄之助を斬るだろう。
 それでも、その命に従いたいとは思わなかった。
「それでも――構いません」
「市村!」
「できれば、野村さんのように、副長のために死ぬのが望みだったのですけれど……」
 そう云った瞬間、副長の顔が大きく歪んだ。
「馬鹿なことを云うな!」
 激しい声音で、副長は叫んだ。
「俺のために死ぬなんぞ、愚の骨頂だ! とんでもねェ大馬鹿野郎だ! 俺のためになんぞ……」
 声が途切れ、ふと俯き加減になる。目を逸らし、顔を背け――まるで、泣いているかのように。
「副長……」
 鉄之助は、胸が熱くなった。
 新撰組副長――否、今は陸軍奉行並か――であるこのひとが、たかが小姓ひとりの生命を、これほど案じてくれようとは――いくたりもの歴戦の剣士たちを率い、今また戦いへ赴くこのひとが。
 だがそれでも、鉄之助の心は定まっていた。
 このひとの傍で、この人のために果てる。そのために、ここまでやってきたのだ。このひとの生命を守るために。
 ――どうか、お傍に置いて下さい……
 自分などの生命を案ずるのではなく、このひと自身の生命を案じて欲しい。古くからいる隊士たち、新しく入ったものたち、新撰組以外の、副長に従うすべての兵たちのために。
「――市村……」
 鉄之助は期待していた。副長が根負けして、かれを傍に置き続けてくれるのだろうと。
 だが。
「――副長」
 安富が、襖の向こうから声をかけてきた。
「何だ」
アルビオン号よりの使者が来られましたが、いかが致しましょう」
「……お通ししろ」
 そう云って、副長は、刀を鞘に収めた。
 ややあって、唐紙の向こうから現れたのは、洋装の見知らぬ男。丸い、ものやわらかな面差しの中で、細い目が、そればかりは鋭く輝いている。
「……ご足労戴き、かたじけない」
 副長が頭を下げると、男はにこにこと笑って首を振った。
「何の、土方先生のお役に立てますなら、望外の喜び。――して、お預かりするのは、こちらの方でございますか」
 さらに細められたまなざしが、鉄之助を見た。
「そうだ。市村鉄之助と云う。内々の使者に立てるので、横濱までお預かり願いたい」
「承知仕りました」
「副長!」
 鉄之助は叫んだ。
「俺は、お傍に……」
「ここで俺に斬られるよりは、大人しく命に従った方がいいだろう――こちらは、英国船アルビオン号の通詞で、松本殿とおっしゃる。船内で何かあれば、この方に頼れ」
 そうして、風呂敷包みを鉄之助に押し付けてくる。
「この中に、俺の写真と髪、書きつけを納めてある――それは、日野の佐藤彦五郎殿に渡してくれ。俺の義兄だ。もうひとつ、江戸の大東屋宛の書状もある。それは、向こうで大東屋の番頭に渡せ。良いように計らってくれるはずだ」
 だが、この重みは書状だけではあり得ない。反り返った長いものと、鍔の確かな感触――この中には刀があるはずだ。
「一緒に入れてある刀は、向こうについたら質にでも入れて、路銀にしろ。金子も、多少は入れてあるが……道中、何があるかわからねェからな」
 副長は云って、いつものように、鉄之助の頭をくしゃりと撫でてきた。
「彦五郎殿と姉のおのぶは、おめェを悪いようにはしねェはずだ。――行け。息災で、な」
「副長!」
 鉄之助は叫んだが、副長は、もはやあわい笑みを浮かべるばかりだった。
「頼んだぞ、市村」
 そんな言葉を聞きたいわけではないのに。
 ここに留まれと、死ぬまで傍で戦い続けろと、その許しだけを待っていたと云うのに。
 ――このひとは、死にゆくのだ……
 松本と安富に手を引かれながら、鉄之助は副長を振り返った。
 このひとは、もはや生きて帰るつもりなどないのだ――薩長との戦いのうちに果て、ここで屍を晒す覚悟なのだ。
 ――俺もそうです、俺も……副長!
 二度と江戸の土を踏まぬつもりで、ここまで来た。副長を守り、その楯となって散るのだと、そう心に決めていた、それなのに。
「――副長の命を果たせ、市村」
 安富が、かれの腕を掴み、引きずるようにしながら、声をかけてきた。
「君が生きてここを離れることが、副長の望まれることなのだ――君は、それに応えなければならん。……あのひとを悲しませるな」
 悲しませるな。
 その言葉に、鉄之助は、反論する言葉を奪われた。
 そうだ、かれは憶えている。玉置良蔵の、野村利三郎の死に、副長がどれほど意気消沈していたかを――その深い悲しみを。
 副長を悲しませるな、という安富の言葉は、鉄之助の胸を的確に貫いた。
 あのひとを悲しませたくはない、だが、その死顔を見つめることもしたくはないのだ。
 それならば――とるべきみちはただひとつ、このまま副長の命に従うということか。
 だが――それでは、自分の望みは、沖田との約束は。
 ――副長……!
 安富に腕を引かれて官舎を出、そこからは、松本とふたりになった。
 五稜郭の城外に出たところで振り返れば、城門の小窓に人影のあるのが見えた。
 副長だ、と思った次の瞬間、鉄之助は駆け戻って、その足許に縋りつきたい衝動を覚えたが――足を止めることもできぬまま、やがてその影も見えなくなった。
 明治二年四月八日、それが、副長との最後の別れとなった。


† † † † †


鉄ちゃんの話の続き。五稜郭脱出、のはず。長い……(汗)


っつーか、うおおぉぉ、鉄ちゃんが「はい」って云わない〜!
七転八倒した挙句、“これしかない!”と思って取らせた行動は、鬼のとJust同じでした……(「今昔備忘記」by『続 新選組史料集』――鉄ちゃんの話より) 思いついた! と思ったのは、単にデータベースにアクセスできただけだったってことですか……つーか、考えること同じかよ、やっぱりな……


えぇえと、この辺の(怪)情報はあんまり入手し辛い(いろんな意味でね……)ので、資料+微弱な電波で。鬼の死に際だと、いろいろとね……いいじゃん、勝手に死んだんだし、とは、ちょっとアレなカンジだもんなァ……
とりあえず、一番わかんないのが、横浜→日野あたりの鉄ちゃんなので、その辺の情報……何で四月十五日出航で、七月アタマに日野到着なのさ、とか。日野の場所を知らなかったとか? やっぱり甲陽鎮撫隊には加わってなかったのかなァ。わからん。
とか云ってたら、あの時期残党狩りが厳しかったから、鉄ちゃんも、たどり着くまでに苦労したはずだ、と云う(怪)情報……でも二ヶ月半……うぅうん。


そうそう、昨日の項(甘党談義)をUPしたところ、沖田番から「草餅がいいな♪」と云う、謎の要求が……たかられてますよ、オイ!
「え〜? 一緒に食べようって云ってるんだよ」と云うけれど、あの口調はたかってるとしか思えねェよ!
何にも頼んでねェだろ、と思ったものの、そう云えば、こないだからちょっとめんどくさいことを押しつけてたなァ、と思いなおす。
で、結局追分団子の茶房で、草団子を半分奢りました。あそこの餡は、意外に甘さ控えめ、あっさりで好き。あと、梅七味団子と云うのが気になりますよ……


そう云や、杏の種を酒に浸ける(まァ、杏仁酒、もどきと云うか)のに、氷砂糖を買ってきたのですが――1kgって、多いね……これは、半分でもひとりで食べるのは難儀するわ。つーか、一日じゃあ無理。
スゲェな、島田よ……って云うか、これから氷砂糖見るたびに、島田を思い出すことになりそうですよ……


そうそう、銀/魂、結構集めちゃいました。とりあえず、かっちゃんよりも近藤(勲)さんの方が好き。
次の次の巻が出たら、ホントに銀/魂語りやりましょうかね。うわァ、長くなりそうだぜ……


この項、やっと終了……(汗)