新興宗教・土方歳三。

……最近、考えても仕方のないことを考えるのが自分的流行なので(つーか、鬼に関して考えること自体が、まぁそんなもんだからな)、またうだうだと考えてみる。


下の項でちらっと書いた、箱館新撰組新興宗教、について。
いや、こう書くと不快に感じられる人はあるかも知れませんが、しかし充分新興宗教だと思うのよ、あれ。
冷静に考えたら、そして状況を考えたら、仙台で離脱しなかった人ってのは、本当に鬼に心酔してたんだねって云うのがさ――その心酔っぷりが、なんかもう、新興宗教の教祖に帰依しちゃった的盲目さで、現代的視点から考えると、ちょっと怖くないですか?


だってさ、仙台で鬼は、一応自分で考えて、身の振り方決めろって云ったんだよ? あれだったら、仙台藩に降伏すればいいって、一応そこで手離して、新撰組は終わらせるつもりだったと思う――北へやって来たのなんか、新撰組を解体するため以外に考えられないから、これがいいチャンスだと思ったんだろうなぁと。
それがさぁ――22人も残りやがって、お前ら大馬鹿野郎だ、と鬼が思わなかったとは云い切れない。だって、勝機なんかないのにさ。
しかも、鬼自身が、もう死ぬことしか考えてない(将来なんかないからねぇ)ってのに、何で一緒に来るんだって思ったんだろうな――島田魁なんか、妻子もあったのにねぇ。


いくら、男が男に惚れるのが武士道だって云ったって、やっぱりねぇ、いざ自分が担がれる側になると、重いと思うんですよ、特にああいう先のないのが見えてる状況ではさ。残ってくれて嬉しいけど、でもさっさと見捨てて逃げろよって云う、俺なんかに構わず行けよって云う、そういう気持ちはあったと思うんだ。
考えてもみてくださいよ、大の男がさ、“あんたと一緒になら、どこでも行きます”って云ってくるんだよ? まだ年寄りでもなくて、血縁も地縁もなくて、行こうと思えば行っちゃえる連中がよ? ……そりゃ、怖いよな、他人の生命引き受けるんだもん。
多分、鬼は総司のことならかるい気持ちで(あくまでも比較の問題ですが)背負えたと思うんだ。元々弟みたいなもんだったし、まぁもうこんだけきたら一蓮托生みたいなところはあったと思うしね。
でも、島田さんとか相馬とかは違うもん――本当の“他人”で、その生命を背負うってのは、かなり重いですよ。すごく重い。
それに、もっと云うと、試衛館組がいないってのも痛かった――気が抜けないもん。“新撰組の鬼”から抜けられなくなったと云うか。それもまたきつい。いくらカッコつけ激しくとも、四六時中は、やっぱりね。


しかし、鬼が箱館あたりからやさしくなったってのは、そういう意味で、背負った生命の重さを感じていたからかも知れない。
もちろん、箱館新撰組は、結構寄せ集めだから、旧桑名藩士とか、旧唐津藩士とか、旧松山藩士とかは、やっぱりそう近くも、完全に背負い込んでもいなかったとは思うんだ。彼らには、ついてきたいと思った主(つまりは旧藩主)がいるからね。
だけど、22人の生命を、“新撰組”という大きな組織でなく、土方歳三ひとり(京都時代は、新撰組近藤勇の下に築かれた組織、だったからね)で背負うのは、やっぱりきつかったんじゃないかと思う。
だから、もう、カリスマやるしかなかったんじゃないのかなぁ。何もかもは、ひとりでは無理だもん。担ぐひとがいればよかった(あくまでも“新撰組”内部で)んだけど、あいにく、もうここには自分しかいない。誰か(多分、島田、相馬あたり)にかつての自分のポストを委ねて、自分は無欠のカリスマやるしかなかったんだと思う。


で、敗戦色濃くなったときに、ふと思ったんじゃないかな――“新撰組”を最後まで解体する、簡単な方法があるじゃないか、自分が死ねば終わる、って。
うわぁ、すごい解放感だこりゃ。これまでも死ぬ気満々だったけど、そりゃあホントに死ぬぞって気分になるわ。
で、新撰組の古株(まぁ、旧藩士じゃない連中)を自分の傍から引き離して、自分と近しくない連中連れて出撃して――撃たれた時なんか、清々しい気分だったんじゃないかしら、もう、これでみんな自由だって……そんなわきゃあないんだけどね! (←自由) ああ、ホントにな!


って、どこが新興宗教土方歳三の話だーッ!
しかも鬼を美化してるよオイ! やめよう、これはそういう“美しい話”じゃないんだよ!
あああ、もっと冷静な目が欲しいわ、客観的に鬼を語れる目が――って、そんなもん自分に持てるのかよ……